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すっ と剃刀を持った手をまっすぐ自分の方に引く。ボールペンと定規で紙に線を引く、あるいはそれよりも軽い力を込める。パッケージから開けたての剃刀はその程度の力でうっすらと腕に赤い線をなぞる。インクが滲んだり滲まなかったり。古くなった剃刀では、その方法では色のない線を引くことが限界で(しかしこの跡が意外と残る)、右手に力をぐっと込めて、奥歯を噛み締めながら線を引かなければならない。奥歯を噛むたびにこの頃の景色がフラッシュバックする。手や足がむずむずして気持ちがそわそわ落ち着かなくなる。そうしていると集中力がなくなり、何も考えられなくなる。わたしには表れる変化の進行が止まるのをただ待つしかない。打つべき策はその変化を止めることに対してはなく、とても不快だがこれは避けられるものではない。

フラッシュバックといえば。
自転車に乗っている時、車輪に指や手を挟まれ千切れるような感覚と景色が頭に浮かぶ。エスカレーターに乗っていると何かに(誰かではなく)頭の先を後ろに引っ張られ、そのまま落ちてしまうような気がする。そんな経験はないがデジャブのように思えるのだ。その時も手足のむずむずや気持ちの動揺が出る。そして気がつくと奥歯を噛み締めている。

音楽

バンドが好きでよく聴いている。
音楽 というとFoZZtoneの「音楽」を思い出す。朝靄の中のペーパーミル とか、景色の表現が好きだ。

一番太く長く追いかけているのは、迷わずアンダーグラフ。弟の友達が作ったその時の流行の歌が入ったオムニバスMDにツバサが入ってた。まっすぐでも後ろ向きでもない、ナナメな曲を得意としている。と思う。ボーカルの考え方というか精神がとても共感できる。彼はとても深く、人が気にしないようなことまで物事を考え追いかけることができる。でも誰もが気付いている、当たり前のことに気付いていなかったりするのだ。

ちょっと病んでる気分の時はもっぱらART-SCHOOLを聴いてた。一目見る(一耳聴く?)だけでこいつ病んでる!と思う風貌と歌に寄り添ってもらいたくなる時もあるのだ。最近はどっちかというとあんまり聴きたくない。

ガールズバンドも好きだ。
SCANDALは最近ただのギャルバンではなく、アーティストの風格が漂っている。てぃもの高い声とマミのギターが好き。
定番チャットモンチーは二人になってからの曲は知らないが5年前くらいのアルバムを今でもよく聴いている。

流行から聴いているゲスの極み乙女。は訳のわからない人達からテクニカルで誰も思いつかないようなメロディが発されるのが気に入っている。

洋楽はよく知らない。ビートルズとかエリッククラプトンを少し聴くぐらい。

今日は何を聴こう。

夜勤ってねえ

病みたい時には夜勤するべきだと思う。もちろんみんなにそれが当てはまる訳ではなく、わたしだけかもなんだけど。
まず身体を病むのは簡単。生活リズムが狂うし、眠くないから寝なければ疲れがいつもの3倍で溜まってとてもしんどい。不規則な時間に食事を摂って家にこもれば完璧である。
そうなれば心も簡単に病む。悩みがあれば尚一層簡単である。
日勤4日、夜勤3日休みなしでこなして、へとへと、ぼろぼろ。今日最後の夜勤やけど、平和に終わるかなあ。
悩んでいるのは先輩たちへの外面コントロールが原因なんやけど、でもコントロールに従うのは生命の危機だと思うんだなあ。その狭間にいてら選ぶべきは1択のはずやのに、うん。つらい。

また、今度は側頭部がはげました。

涙がとまらない

式場の話をちらりとして、母のちょっとした言葉尻が気にかかったことで言い合いになり、久しぶりに涙を流した。そこまでイラっとしただとか悲しくなった訳ではないのに涙が止まらなかった。そのまま祖父母の家に行って、身体が少ししんどそうな祖父の姿をみてまた涙が溢れてきた。抑うつ状態の祖母の話を聞いていたらまたまた涙が溢れてきた。
午前中は涙が堪えられなかった。

ちょっと疲れている。
自分が ちょっと とすぐ言ってしまう癖があることに最近気付いたところだ。ちょっと待ってください。今顔をあげますから。

ともだち

コミュニケーションをとるために話す。話すことで仲が深まり、より親密な関係になる。
しかし、それとは裏腹にいらないことを話し過ぎると「鬱陶しい」という印象を受けることがある。鬱陶しさは積み重なると嫌悪になる。
つまり仲よくなるために話すのに、話すことで仲が悪くなる、ということがあり得る。

とりあえずここで投稿しておく。
わたしには友情というものがとても難しい。昔あった嫌なことをいつまでも引きずるし、その分それ以前のいい思い出を美化してしまう。

しょうもないこと

自称大学一のメンヘラ、いや、二かもしれない。三かもしれない。関わる友だちがいなさすぎてこんなちっちゃいコミュニティのこともよく知らない。あちゃ。

だいぶコミュ障だと思う。コミュ障てなんなんやろ。どもるし耳悪いし頭の回転遅くて話うまく繋げないから十分コミュ障だと思うんやけど、どうも世間のそれとは意味が違いそう。

わからん。

いや、わたしが今日ツイートしておきたかったことは。
人を信じるってなんだろう。という深いテーマだったんだけど。
ビートルズ聴いてたら眠くなっちゃった。準夜だよ〜まだ起きてるよ〜

看護協会の新聞には、一回の夜勤後には24時間以上の休暇を!て書いてるけど程遠いわ。来月4日勤フルコースあるわ。しかも月曜からだわ。しかも明けの1休み年休使われてるわ。8連勤やん。労働局に通報するぞこのやろ

ああ〜  おばちゃんとおばちゃんのサンドイッチもやだけどなんかもうめんどくせ〜

セルフケアの一歩

わたしは自分のことがずっと嫌いで、でもそのことは認めていて、何年も前から生涯目標は「自分をすきになる」だ と思っていた。
これに関して、「自分のすきなもの(例えば、この場合は彼氏をあげる。)」のことも 嫌い であるようにみせるような、無意識が働くのである。自分と自分のすきなものが一緒くたになっているのだ。
「自分」のすきなもの、それを自分の分身と捉え、自分のことが嫌いだから同じように嫌おうとしてしまう。

しかし、わたしのその大切な人のこと自体は少しも嫌いじゃないと思う。〜だから、〜なところが、すきっていうのは思いつかないのだが、だからこそ無条件の愛を見出していると思っている。
家族、親子の愛こそそうで、家族を愛する理由なんてない。ないものが良いのか、ここにあるのは無条件至上主義である。
なのに人前では彼をけなすし、本人にもキツいことを言ってしまう。ほんとに憎くて言っている訳はもちろんないのだが、あまりに自分が嫌いすぎてつい自分(の分身)も嫌わないといけないという錯覚に駆られてしまうのだ。
さて無条件至上主義の登場である。
すべてを無にして愛をかき集め、集めた愛を振りまこうではないか。
振りまくのは体力もいるから身近なところに重点的に振りまこう。

今日のごはんは何にしようかな。