トリコチロマニア

いわゆる抜毛症。
小学生の頃から頭髪を抜くのが癖だった。
髪質が太くて硬いため、トルネードしていたり、千切れかかっている「へんな髪」が時々ある。それを主に抜いている。(しかしそうではない、ただ他より太い毛も時に抜いている。)
抜くのは頭頂部を避けた側頭及び後頭部。(ハゲになったら目立つから。)
最近ストレスのせいか、気が付いたら頭に手を持っていってしまう。
右手は清潔のため(潔癖である)、左手でのみ抜く。
左腕がだるくなっても止められない。
夜眠れなかったり、昼間一人で過ごしているため髪を抜いてしまう時間がどうしても長くなってしまう。
どうにか止められないかと主人に言われるが、
育児が始まれば気が紛れてやめれるかなと割と呑気に考えている。

1年ぶりの更新で、まさか自分がもうすぐ母になると記すことになるとは。

nursingとは(つぶやき)

看護の語源は母乳を与えるというところにあるらしい。
母乳をやるというのは母と子の関係でしか成り立たないことである。食事の摂取であると同時に、他人の踏み込めない部分の交わりであるようだ。

看護というのは本来そういうものであるということか。
確かにわたしは日常バイタルサインの測定であったり清拭であったり口腔ケアであったり薬の管理であったり、そういうものを看護と代名していた気がする。その処置やケアは看護を行う上での手段、というかある意味オマケというか。医師や介護士とは別の看護の専門性が発揮できるところなのかなと思う。

毎号毎号こんなに興味深い雑誌は今までみたことない。
わたしは精神科ナースではないが、わたしやわたしのまわりには見当たらない視点やテーマが取り上げられており、本当にためになる。
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精神看護9月号

しかも1200円と少し安い。
(他科看護雑誌比較)

看護職なら、いや医療職なら一読して損はない雑誌だと思います。



Nのために

80代のあのかわいさはなんだろうか。
薄黄ばんだ白い帽子と、釣りかとつっこみたくなるベストと、時計内蔵のベルトと黄ばんだズボン。
皮の垂れた顔としわくちゃの笑い顔。

口ではようよう聞くと腹立つことを言っているんだけど、話し方がかわいくてハイハイ、と聞き流してしまう。

ちょっと猫背で歩くのはのろい。なんならこけそう。トイレにも迷うぐらい道はあやしい。

そんな80代に会うのをたのしみに、毎日病院に通っているのです。仕事をしに行っているはずなのに、なんかたのしくて癒されているのはかわいい愛しいおじいちゃん、おばあちゃんたちのおかげなのです。

人生の先輩です。
どんな人生を歩んできた人であっても、わたしの3.4倍以上この世で生きてきた人たちです。
それだけで尊敬に値します。

でもかわいいのです。
こどもよりもかわいいです。
種類が違うのかもしれませんが、わたしはおじいちゃんの方が見てて癒されます。

ギャップ萌えとかいいますが、偉大さとかわいさのギャップってツンとデレの関係より深いギャップがあるのではないでしょうか。
おじさんとかお父さんとか上司とか、おじさんぐらいの歳の人って到底かわいくなくて、むしろ怖いのに、それが齢を重ねていくと逆にかわいくなるのはなんでなんだろう。

人間の感覚とか感情ってギャップばっかりだなって思います。

認知症のじいちゃんばあちゃんが点滴抜いちゃったり、ベッド乗り出したりするのって、もう!てなるけどなんか理由があると思うと、ごめんねごめんねと思うんです。
なんでこんなことするの!から薬とか家族の付き添いとか抑制とかでなんとかしようとする先輩の対応は、看護師として社会で働く職業人として必要な思考だし、それが仕事なんだけど、
わたしはその先の理由が気になってしょうがなくなる。
何が嫌でしたか?何か気になりましたか?どこに行くんですか?
じいちゃんばあちゃんの考えてることが知りたい、理解したい。
でも現場でそんなことしてる余裕はなかなかなくて、わたしがへらへら笑ってたら周りの先輩がてきぱき対応しちゃう。

一人一人とゆっくり対話することがしたいな、と思った。

オペ後痛くて痛くて、心細くてどうしようもない子がいたんやけど夜勤は人手が足りなくてゆっくり側にいてあげれなかった。わたしは担当じゃなくて、手が空いたからたまに見に行って話し相手をしてたんだけど、こういう時に一人ぼっちってつらいやろなあって思った。

家族の都合も医療者の都合もあるけど、
その 都合 で対話がおろそかになることが多いなと感じます。
でも薬でどうにかならないことって多い。病は気からというけど、対話で気を和ませることで症状が軽減することって稀ではなくて、そこに時間を割けないことが今とてもつらい。


かわいさからわたしのエゴの話になっちゃった。
愛しいたぬきが帰ってくるのでとりあえずわたしの身体の末端にある水分量多めの筆を置くことにします。

ピアサポーター

わたしはもしかして、
ピアサポーター になりたいのでは?
と思ったので記録に残す。

今面接中だが、新しい病院に春から転籍が決まる。→しかし冬に妊娠しちゃう。すると女社会のセオリー「いじめ」を受ける。→病んじゃう。→あわよくば入院しちゃう。→就職どうしよう…→とりあえず臨時のピアサポーターになっちゃったらいいんじゃない?看護師資格付き⭐️

と、妄想を膨らませたところで気付いた。

精神科患者でもないのになぜわたしは彼らに親近感を持とうとしているんだ。大した量じゃない薬をがぶがぶ飲んでたことをなんでそんなに思い出の額縁に入れるのだ。

…つまりこれって自分の経験を生かして親近感をネタに患者さんに近づこうとしてるんじゃないか?
ネタに、はなんか違うな。語彙が足りない。
でもきっとそういうことなのだ。

自分を使いたいのか、患者さんに近づきたいのか、どっちがメインかちょっとわからないが、新たな自分が見えた瞬間である。

改性

性変わったん??
と友だちに言われた。

あれ。
わたしが変わったのは性だったか?
そしたらわたしは妻ではなく夫ということになる?
???
コンマ数秒混乱する。いやいや。
性じゃない、姓だよ。
女だよ。

役所で書類書いてて、生年月日ですら変更できるのに男女の性は変えれない(枠の書き方的に)ことに若干の違和感を覚えつつ、いやわたし性は変える予定ねーし、と思い直す。
同性婚の人はどうすんだ?あ、日本はまだ法的に認められてないのか。
女同士で結婚したらどっちか夫になるのか?でも心は男の場合とレズビアンの場合があるからその時々か。う〜ん。
その辺の文化については人生で触れたことがない。
書類の煩雑さに惑わされながら日本の婚姻制度について考える機会になった。


ついでに、
一週間の結婚休暇を終えて昨日からまた働いている。つらくて帰りたいと終始思っていたのだが、終わってみると満足感のような充実感のような、生きているという実感を得られた。先輩に引け目を感じて精神的につらい部分は大きいのだが、患者さんと接する仕事自体はやっぱりとても好きだ。

結婚して浮かれている、じきに辞めるから手を抜いていると思われるのだろうが、それでもいいやと思えるくらいに幸せである、という気持ちが少しわかった。

しかし陰口への恐怖はあと8ヶ月ほどわたしにつきまとうようだ。

ナースのお仕事

病院にはいろいろ事情があって 参画型看護計画というものを積極的に取り入れなければならないらしい。

そもそも
看護師は患者さん一人一人にオリジナルな看護計画を立案し、それに沿った看護を提供している。

そのうち参画型看護計画というのは患者さんの自立(律)を促し、疾病の治癒やコントロールについて円滑に事を進めるためのもんである。

こないだ参画型の説明をいつものように行っていて、とってもわかりにくいな、と思った。
(もちろんわたしの説明が悪いのもあるのだが、)これって看護師の仕事があまり知られていないことが原因の一つなんじゃないかな。
「患者さんのセルフケアのため」の部分の説明は良いとして(理解を求めることはそう難しくない)、「看護計画」そのものの存在が患者さんはよくわからんだろうな、と思ったのだ。

この前の研修で講師の先生もそんなことを言ってたし。「昔主人に看護師って何する人なん?て聞かれたんですが、わたしは上手く説明できなかったんですね。点滴する人?身体を拭く人?でもそれって業務の内容であって何が仕事かの説明ではないと思ったんです。」

その講義は医療倫理についての講義であった。看護師は国家免許であるが、高等教育機関の統一はされていないし、業務独占もない。現場の医師でも看護師と介護士の違いがわかっていない人も多いそうだ。なんだか難しい話だったがつまりのところ、看護師って世間的にもよくわからない、ふわふわしている立場のようだ。

わたしたちは風邪をひいたりケガをしたり、日常的に病院の世話になる機会があるにも関わらず、看護について知りもしないし看護計画なんて名前すら聞き覚えがない。
他の仕事もそうじゃないか、というとそうであるが、患者さん自身を医療にもっと参画させようとするならば、もっとこちら側から日常に看護や医療を馴染ませようとする努力は必要なんじゃないかなと思う。なんだか今のわたし自身の現状は、看護という行為と患者さんの参画という努力を交換しているような感じがする。努力しないなら看護しません、ということではないのだが、なんだか押し付けのような気がしてそのイメージが拭えない。

セルフケア、というならそれが誰かの押し付けであってはならない。患者さんが自分の内側から行動を律する、であってほしいのだが、どうしてもそのための「促し」が「指示」になる時があるように感じるのだ。



ポジティブフィードバック

職場の研修で、急変時のシミュレーションを行った。ここでのポジティブフィードバックがとても有効だと感じたのでここに残しておく。

60人ほどの同期の中から三人ずつ前に出て、事例のシミュレーションを通して振り返りをして、というのを4回繰り返すものだった。
場所は病院内にある研修用のシミュレーターや物品が揃っている部屋で、わたしたち病棟同期は1年目の頃からよくそこで手技の自主練習をしていた。

司会をしていた教育担当の師長さんは、わたしたちがよく練習をしているのを知っており、研修のたびに「◯◯(病棟名)の三人ね( ´ ▽ ` )ノ」と声をかけてくれる。
「じゃあどなたにやっていただきましょうか」という雰囲気になった瞬間、いや、あるいはその前からなんとなく嫌な予感はしていた。師長は案の定こちらを見てニコニコしている。当てられる。

シミュレーションはいつもしているが60人の前となると緊張感もひとしおである。
いざ始まる。頭は真っ白である。
いつもきょどってうまくできないができなさが半端ない。事例はアナフィラキシーだったけど気が付いたらAEDがきてて自分は心マをしていた。
そこで終了の声がかかる。
感想を求められるが、何もできたもんじゃない。いつも先輩に浴びせられる反省を己の口から先に出しておいた。
病棟で練習するときはいつも先輩からできていないことをピックアップされ、それをマシンガンのように撃たれる。これがつらい。

己の反省の後は評価者(みていた他の同期)からのフィードバックである。ここで司会からの指定は特になかったが、このフィードバックが予想に反してポジティブな、わたしたちをほめるような内容のコメントばかりであった。

ここでわたしたちが感じたのはほめられたことへの喜びではなかった。もちろん安堵もあったが、肯定を通しての自己の反省が浮かび、肯定されていることでその反省がとてもすんなりと受け入れられたのである。
いつも反省は浮かぶがここで病棟でのシミュレーションと異なるのは、肯定からの自己反省の方が受け入れがスムーズで成長に繋がりうる、と感じたことである。
これをなんと呼ぶのかわからないが、このようなフィードバックについてはWRAPでも行われており、きっと人の精神面に良い刺激を与えるに違いない。